環境で定番のレイチェル・カーソンってどんな人?レイチェル・カーソンまとめました!

環境で定番のレイチェル・カーソンってどんな人?レイチェル・カーソンまとめました!

沈黙の春とは?

レイチェル・カーソンが著した『沈黙の春』は、合成化学薬品であるDDTのような殺虫剤を無制限に思慮なくばらまき続けていると、やがて春が来ても鳥もさえずることなく、虫の音すらも聞こえない沈黙した春を迎えるようになるという警告の書です。

1962年に出版され、発売半年で約50万部突破、後のアースディ(地球について考える日)や国連人間環境会議のきっかけとなりました

子供の頃が小説創作に打ち込んでいた

幼少時代から文学少女だった8歳のときに「小さな茶色のお家」という物語を書いています。二羽のミソサザイ(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属に分類される鳥類)が住処を探して可愛らしく巣を作る物語です。

この頃から、生態を小説的に切り取る訓練をしていたことを考えると、『沈黙の春』が生まれるのも理解できます。

レイチェル・カーソンの歴史の始まりとなった大学時代の生物学との出会い

レイチェル・カーソンは大学2年生で生物学の講義を受け、生物学という学問にすっかり魅せられ、研究へのめり込んでいきます。

当時のアメリカの大学では自然科学系へ進学する女性は本当に少なく、それだけ女性にはハードな分野だと思われていた時代でした。

しかし、彼女は大学三年生になったときに、専攻を英文学から生物学へシフトさせました。

博士課程に進めず退学したことが大きな転機となる

レイチェル・カーソンは、父の死などによる家計の圧迫から、結局は博士課程に進むことができずに、退学することになりました。

しかし、ここが彼女の1つの転機となります。

農務省の研究機関で働いていた大学の恩師が仕事を繋いでくれたのです。それは商務省漁業局科学調査部長が大衆教育のために企画していた「水の中のロマンス」というラジオ番組の台本を書く仕事の代役です。

商務省漁業局科学調査部長には水の科学の知識があっても、一般の人が大衆ラジオとして楽しめるレベルに落とし込むことに苦労していました。

そこで、幼少時代から小説の訓練をし、大学では生物学に没頭していたレイチェル・カーソンに仕事が駆けてみようということになったのです。

結果的に、レイチェル・カーソンの台本は好評を博し、新たなスタートの幕開けとなったのです。

作家、ライター、ジャーナリスト、研究者、すべての側面を磨き続けた

その他、商務省漁業局科学調査では、チェサピーク湾に生息する魚の調査し、魚の統計データを解析し、生息年数と個体数の変動を導き、魚類保護についての一般向けのパンフレットを書くという仕事をこなしました。

チェサピーク湾でレイチェル・カーソンは、漁師や船頭など多くの人に声をかけ、魚の加工工場などを見学し、自分の足と様々な取材していきました。

科学読み物作家としてのデビュー

1973年「海のなか」を『アトランティック・マンスリー』に投稿。『アトランティック・マンスリー』は、1857年アメリカのボストンでJ.R.ローエル編集で創刊された月刊誌です。

「海のなか」は、海の中に棲息する無数の生き物を物語風に描き、生き物どうしの関わり合いと、連続性を科学的にも示しており、まさにレイチェル・カーソンのお家芸といった作品になっています。

これが科学読み物作家としてのデビューとなり、有名な出版社から執筆企画の依頼を貰うことに繋がりました。

1941年初の単行本『潮風の下で』を出版

しかし、真珠湾攻撃で戦争が始まり、本は2000部ほどしか売れずに、経済的な報いを得ることができませんでした。

二度目のチャレンジで息を吹き返す

初の単行本『潮風の下で』の出版から10年後の1951年、レイチェル・カーソンは『われらをめぐる海』を出版。

売り上げは4カ月で10万部を突破、年末には1日4000部の割合で売れるヒットとなりました。

1952年には博物学の分野で優れた作品を祝す権威ある賞を受賞しました。

1955年『海辺』出版

1955年に『海辺』を出版。海辺のさまざまな環境と生物たちの生態をあますところなく紹介し、伝えている本で挿絵もついており、海の生物の科学的なガイドブックの役割から、文学的なエッセイとして楽しめる要素までを含んでいる作品となっています。

殺虫剤への関心の高まり

1950年代に入り、戦後の葛藤と科学技術の急速な発展により、レイチェルカ・カーソンの生態への問題意識も強くなります。

レイチェル・カーソンは1945年、メリーランド州の野生生物研究センターでDDTが広い地域に散布された場合、どのような影響があるかを調べる計画が上がっていました。さらに1948年には殺虫作用を発見したパウル・ミュラーがノーベル賞を受賞。そういった流れの中で、レイチェル・カーソンはDDTへの危惧をひしひしと感じていったのです。

1962年『沈黙の春』掲載・出版

ここでようやく、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』です。『沈黙の春』は、まず、『ニューヨーカー』に掲載され、大きな反響を獲得します。そして、単行本の出版でさらに勢いを増すことになったのです。

本の反響の結果、レイチェル・カーソンは、化学産業界をはじめ、多くの企業や団体から圧力を受け、苦難を強いられることになります。

ケネディ大統領が終止符を打つ

『沈黙の春』に区切りをつけたのが、ケネディ大統領の科学諮問委員会科学技術特別委員会の報告書です。

沈黙の春を評価し、農薬企業、農務省、食品医薬品局を批判する結びとなったのです。

レイチェル・カーソンが歴史的な人物になった瞬間とも言えるでしょう。

最後に:レイチェル・カーソンの知的探求心と創作意欲が独自の作品を生む

以上、レイチェル・カーソンについて掘り下げてきましたが、いかがだったでしょうか?

レイチェル・カーソンは子供の頃からの経験もあり、すべての事柄を徹底的に調べてからでなければ、文章を掛けないタイプでした。それは言い換えれば、知的探求心が途切れることなく、また完璧な創作物をアウトプットしていこうという意思の表れでもあります。

研究と文学を掛け算させて、エンターテインメントにも振り切れるレイチェル・カーソンはすごく魅力的ですね。

ぜひ、今回の記事も参考にしてみて下さい。

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